お盆ですね

お盆ですね。 
大学の入学試験の二次試験で、「死について述べよ」といった設問があったことを、この頃ふと思い出します。

普通に話して送り返した患者さんが、一週間後に突然家族や警察から死去されたとの連絡が入ることがあります。 また病棟で徐々に死に向かってゆく患者さんを看取ることがあります。 医者はおそらく死の前後に立ち会う機会が最も多い職業の一つなのでしょう。 試験を作った出題者は、そういった将来の医者としての死生観を、医者になる覚悟を聞いていたのだと思います。

患者さんと話していて死について話題になることがあります。 例えば高齢の患者さんが「もう死にたいです」とおっしゃる場合や、癌などで患者さん自身が濃厚に死の気配を感じている場合です。 
その時我々医者たちは、「そんなこと言わず、まだまだ頑張ってくださいよ」とか「まだ大丈夫、死にませんよ」と申し上げたりします。 でもそれが本当にその時にかけてあげる言葉として適切な言葉なのか、私はいつも迷います。 何せこの言葉はこれからも生きてゆく人からの言葉だからです。 死について身近に感じている患者さんにとって、それはとても孤独にさせる言葉なのかもしれません。

20年ぐらい前までの医者にとって、死の話題はタブーでした。 医者は科学者であり、生きている人間が誰も検証できない「死」という事柄を議論することは科学的ではないという理由なのでしょう。 私も入学試験の設問を後に、他人と死について議論したことは今までなかったです。 しかし、ほとんどの大人は、人は自分の命に限りがあって、いつかは死ぬということを受け入れています。 そして、おそらくは「死」をどう捉えるかで、人の生き方は全く違ったものになるでしょう。 ならもう少し周囲の人と「死」について意見を交換しても良いもののように思いますが、やはり「死」の話をして、リアルに死を感じるようになると、それだけで不吉、死に魅入られてしまうのではないかという恐れ、あとは何も知らない人同士で議論して無駄という諦め、そう言った理由で、我々は「死」について語ることを本能的に避けるのかもしれません。

死が一体どんなものなのか、知ることができない世界・知らないことへの不安が、死というものを大きく不安なものにしているだけで、生者が考えるほど死んでいった人達は「かわいそう」ではないのかもしれないと思うことにしています。 かわいそうなのは、身近な人の死によって大切な人との繋がりが突然断ち切れてしまった、我々のほうではないのかなと・・。 だから、私たちが看取った多くの患者さんや先に亡くなった友人、家族から「かわいそうなんて勝手に決つけないでほしいな」と言われてしまうかもしれません。 しかし、一度死んでしまえば、「あれやり残していた、もう一度生きたい・・」といってよみがえることは出来ないわけで、生きているうちに後悔のないようにこの世界でできるだけのことはしたいなと思っています。 先に亡くなられた方々へ、もうちょっとしたらそちらへ行きますので、もうちょっとだけ待っていてください。

話が脱線しましたね。 患者さんが「死にたい」とおっしゃられる時、私は、なぜ死にたいと思っているかが大事なのかなと思います。 ただ直線的に「なぜ死にたいと思うのですか?」と質問しても、普通そう言った場合、多くの気持ちが入り混じっていて、一言では説明することができず、結果として「なんとなく・・・」と返答されることが多いでしょう。 また質問するこちら側も同じ死線の上に立っているようには見えないでしょうから、どうしても共感を持ってお話ししてもらうことは出来ないでしょうし、患者さんの孤独を紛らわせることはまだ出来ないのだと思います。 あと20年ぐらいたったら、外見的にももっと自然に話できるのでしょうけれど・・。

とりとめの無いはなしになってすいません。 放っておくとこのまま延々つづきそうなので、今日はこの辺で。 
先に亡くなられた方へ冥福をお祈りして。
三好クリニック(内科)
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