不整脈 止めるべきか、止めないべきか?
登山家が山を登る理由を聞かれて「そこに山があるから登る」と答える。 登山家のジョージ・マロリー氏の言葉で、どうも誤訳だそうですが、たとえ誤訳であってもなんとなく山を登る人の普遍的な気持ちを代弁しているような気もします。
登山家は自分の命を危険にさらして登山による爽快感を得るのでしょう。 おそらく登ってみなければ解らない景色があって、それを体験することの素晴らしさを、体験していない人に言葉で説明することは不可能なのでしょう。 そこに山があるから、何の答えにもなっていないようだけれど、きっとそれ以外の表現方法がないのかもしれません。
しかし不整脈をなぜ治療するのかと聞かれて、「そこに不整脈があるから」と医者が答えるとすれば、これはちょっと誠意がない気がします。 登山家と何が違うかといえば、命を賭けているのが患者さんであって、医者ではないからなのだと思います。 病気の治療には医者と患者が同じ目的を持っている必要があります。 「そこに不整脈があるから」という理由は、患者さんにとってそう簡単に共有できる目標ないのではないかと思います。 一番共有しやすい目標は「命を長らえることができる。寿命を延長することができる」ということですね。 そしてもう一つは、「症状がつらければそれを止めましょう」というものです。 最近は「元気に長生きしましょう」というものも付け加わった気がします。
元気に長生き
これは、心房細動の際の血栓塞栓症予防の話ですが、少し焦点がずれますのでまた別の機会にお話します。
寿命延長
命に関わるような不整脈は珍しいです。 そういった危険な不整脈の多くは遺伝してゆくような不整脈であったり、心臓に構造的な異常があって収縮機能が低下している患者さんに限られます。 本当に珍しくそういったものに当てはまらない不整脈もありますが、それはまた例外中の例外です。 そのため寿命延長という目的で不整脈の治療をすることはほとんどありません。 特に後者、収縮機能が低下している患者さんにとっては、皮肉なことに不整脈の治療薬の副作用で寿命を短縮する場合があります。 なのでそういった患者さんに対しては、血管内手術(カテーテルアブレーション)や、自動植え込み型除細動器といった、どちらかというと外科的な治療に近い治療を行う傾向があります。
辛い症状を止める
不整脈の治療は、必ず何らかの代償が必要となります。 薬を飲む手間や、手術のための入院の時間も当然ですが、それ以外に強く効果のはっきりとした抗不整脈薬の多くは、心機能の良い患者さんにとっては無視できる程度ですが、心機能の悪い患者さんにとっては寿命を短縮してしまう副作用があります。 なので「症状の程度」と「副作用の危険度」の大きさが釣り合いが取れているかどうかが重要になるのです。 つまり患者さんの症状がどの程度なのかを推し量ることが、治療するかしないかの分岐点になります。
同じ病名の不整脈でも、その症状は人によって全く異なります。 ある患者は、心電図で指摘されるまで全く気づかなかったりします。 ある患者さんは、一発でも不整脈があると、その日一日全く仕事が手につかなかったりします。 症状の強さがどうして個人差があるのかは解ってはいません。 そして症状の強さは、患者さんにしかわからないところが難しいところです。 医者はそのため、患者さんに症状について根掘り葉堀り聞きます。 患者さんはもしかしたら自分の不整脈が命に関わるものではないかと心配で、自分の不整脈の症状について、詳細に報告される方もいらっしゃいますし、我慢して全く黙っておられる患者さんもいます。 医者としてうっかりすると、この患者さんの症状についての報告時間の長さで、患者さんの困っている程度を誤認することがあります。 外来で長時間症状について説明される患者さんが、症状に困っているものだと誤解してしまうわけです。 実は医者に聞かれるから克明に話されているだけで、よくお話を聞くと実は全く困ってはいなかったことが、カテーテル手術直前に解ったりすることもあります。 これはもしかしたら、医者側が長時間患者さんの自覚症状を聞く辛さを、患者さんの辛さとすりかえているだけなのかもしれませんね。
では副作用の危険度がどのぐらいあるのかと考えてみるとこれも実はあまりよくわかっていないのです。 心機能の保たれた患者さんで、抗不整脈薬でどのくらい心事故を増やすかという明確なデータは実はありません。 ただ自分の大学での不整脈治療の経験から言えば、きちんと、採血や心電図を定期的にとっていれば、年間1千人に1人以上ということはないのではないかなと思います(もっと少ないのではないかなと信じてますが)。 ご自身の自覚症状の強さが、その危険度を超えていると思われるなら、お薬を飲んでいただくことになります。 なので、私の外来ではいつも初めに、この不整脈を止めたいと思うかどうかを直接お聞きするようにしています。
命の危険度を比較することはあまり良いこととは思いませんが、治療の際にそれを患者さんに判断していただかなくてはならなくなるので、不謹慎だと言われることを覚悟で、極端でそして身近な例を挙げてみます。 みなさんそれほど意識しないかもしれませんが、1年間に交通事故で死亡する確率は1〜2万人に一人と言われています。 つまり外出すれば確実に死亡率が上がるわけです。 では、みなさんそれを怖がって外出しないで家でじっとしているかというと大部分の方はそうではないはずです。 それは外出しないことによって生じる不利益と、事故死する可能性の程度を無意識に天秤にかけて生活していると言えます。しかし、年間千人に一人が死亡するなら外出するでしょうか?、あるいは100人に一人ならどうでしょう。 年間100人に一人が死ぬという交通事情なら、きっと子供達の外出には大人が送り迎えすることになるでしょうね。 あるいは家庭によっては、子供を外にださないてご家庭で勉強させるというご家庭も出てくるでしょう。 つまり、どのぐらいリスクがあるのか、その数字を見て自分たちの行動を決定して行くことになります。 それと同じことが、不整脈薬を飲むことのリスクについても言えるはずです。しかし交通事故死の確率とは異なり、不整脈薬を飲むことによるリスクがどのぐらいあるのかという具体的な数値はわかっていません。
反対に患者さんに得られる利益について突き詰めてみると、治療に踏み切るかどうかは、本当は患者さんの不整脈の症状の強さが重要なのではなく、止まることによって得られる患者さんの満足度がどのぐらいかということが大事なのだとわかります。 実はこれも計り知れないものがあります。 序文でお話ししたように、不整脈のない世界を体験しなければそれを想像することは難しく、患者さんの治療によって得られるメリットを、治療の前には小さく見積もってしまうこともあります。 また患者さんの気持ちは一つの言葉で説明できるような単純なものではないことも確かです。 『不整脈止めたいですか?』とお聞きして、YesかNoかで答えるだけでは不十分で、患者さんと結構長い時間お話しして、本当はどのぐらい不整脈を止めたいと思っているのかを想像してゆく必要があります。
つまり治療すべきか、治療すべきでないか、これは患者さんとお会いしてみないとわからないというのが結論なのでしょう。 でも「そこに不整脈があるから」という理由だけでは決して治療すべきではないと思います。
登山家は自分の命を危険にさらして登山による爽快感を得るのでしょう。 おそらく登ってみなければ解らない景色があって、それを体験することの素晴らしさを、体験していない人に言葉で説明することは不可能なのでしょう。 そこに山があるから、何の答えにもなっていないようだけれど、きっとそれ以外の表現方法がないのかもしれません。
しかし不整脈をなぜ治療するのかと聞かれて、「そこに不整脈があるから」と医者が答えるとすれば、これはちょっと誠意がない気がします。 登山家と何が違うかといえば、命を賭けているのが患者さんであって、医者ではないからなのだと思います。 病気の治療には医者と患者が同じ目的を持っている必要があります。 「そこに不整脈があるから」という理由は、患者さんにとってそう簡単に共有できる目標ないのではないかと思います。 一番共有しやすい目標は「命を長らえることができる。寿命を延長することができる」ということですね。 そしてもう一つは、「症状がつらければそれを止めましょう」というものです。 最近は「元気に長生きしましょう」というものも付け加わった気がします。
元気に長生き
これは、心房細動の際の血栓塞栓症予防の話ですが、少し焦点がずれますのでまた別の機会にお話します。
寿命延長
命に関わるような不整脈は珍しいです。 そういった危険な不整脈の多くは遺伝してゆくような不整脈であったり、心臓に構造的な異常があって収縮機能が低下している患者さんに限られます。 本当に珍しくそういったものに当てはまらない不整脈もありますが、それはまた例外中の例外です。 そのため寿命延長という目的で不整脈の治療をすることはほとんどありません。 特に後者、収縮機能が低下している患者さんにとっては、皮肉なことに不整脈の治療薬の副作用で寿命を短縮する場合があります。 なのでそういった患者さんに対しては、血管内手術(カテーテルアブレーション)や、自動植え込み型除細動器といった、どちらかというと外科的な治療に近い治療を行う傾向があります。
辛い症状を止める
不整脈の治療は、必ず何らかの代償が必要となります。 薬を飲む手間や、手術のための入院の時間も当然ですが、それ以外に強く効果のはっきりとした抗不整脈薬の多くは、心機能の良い患者さんにとっては無視できる程度ですが、心機能の悪い患者さんにとっては寿命を短縮してしまう副作用があります。 なので「症状の程度」と「副作用の危険度」の大きさが釣り合いが取れているかどうかが重要になるのです。 つまり患者さんの症状がどの程度なのかを推し量ることが、治療するかしないかの分岐点になります。
同じ病名の不整脈でも、その症状は人によって全く異なります。 ある患者は、心電図で指摘されるまで全く気づかなかったりします。 ある患者さんは、一発でも不整脈があると、その日一日全く仕事が手につかなかったりします。 症状の強さがどうして個人差があるのかは解ってはいません。 そして症状の強さは、患者さんにしかわからないところが難しいところです。 医者はそのため、患者さんに症状について根掘り葉堀り聞きます。 患者さんはもしかしたら自分の不整脈が命に関わるものではないかと心配で、自分の不整脈の症状について、詳細に報告される方もいらっしゃいますし、我慢して全く黙っておられる患者さんもいます。 医者としてうっかりすると、この患者さんの症状についての報告時間の長さで、患者さんの困っている程度を誤認することがあります。 外来で長時間症状について説明される患者さんが、症状に困っているものだと誤解してしまうわけです。 実は医者に聞かれるから克明に話されているだけで、よくお話を聞くと実は全く困ってはいなかったことが、カテーテル手術直前に解ったりすることもあります。 これはもしかしたら、医者側が長時間患者さんの自覚症状を聞く辛さを、患者さんの辛さとすりかえているだけなのかもしれませんね。
では副作用の危険度がどのぐらいあるのかと考えてみるとこれも実はあまりよくわかっていないのです。 心機能の保たれた患者さんで、抗不整脈薬でどのくらい心事故を増やすかという明確なデータは実はありません。 ただ自分の大学での不整脈治療の経験から言えば、きちんと、採血や心電図を定期的にとっていれば、年間1千人に1人以上ということはないのではないかなと思います(もっと少ないのではないかなと信じてますが)。 ご自身の自覚症状の強さが、その危険度を超えていると思われるなら、お薬を飲んでいただくことになります。 なので、私の外来ではいつも初めに、この不整脈を止めたいと思うかどうかを直接お聞きするようにしています。
命の危険度を比較することはあまり良いこととは思いませんが、治療の際にそれを患者さんに判断していただかなくてはならなくなるので、不謹慎だと言われることを覚悟で、極端でそして身近な例を挙げてみます。 みなさんそれほど意識しないかもしれませんが、1年間に交通事故で死亡する確率は1〜2万人に一人と言われています。 つまり外出すれば確実に死亡率が上がるわけです。 では、みなさんそれを怖がって外出しないで家でじっとしているかというと大部分の方はそうではないはずです。 それは外出しないことによって生じる不利益と、事故死する可能性の程度を無意識に天秤にかけて生活していると言えます。しかし、年間千人に一人が死亡するなら外出するでしょうか?、あるいは100人に一人ならどうでしょう。 年間100人に一人が死ぬという交通事情なら、きっと子供達の外出には大人が送り迎えすることになるでしょうね。 あるいは家庭によっては、子供を外にださないてご家庭で勉強させるというご家庭も出てくるでしょう。 つまり、どのぐらいリスクがあるのか、その数字を見て自分たちの行動を決定して行くことになります。 それと同じことが、不整脈薬を飲むことのリスクについても言えるはずです。しかし交通事故死の確率とは異なり、不整脈薬を飲むことによるリスクがどのぐらいあるのかという具体的な数値はわかっていません。
反対に患者さんに得られる利益について突き詰めてみると、治療に踏み切るかどうかは、本当は患者さんの不整脈の症状の強さが重要なのではなく、止まることによって得られる患者さんの満足度がどのぐらいかということが大事なのだとわかります。 実はこれも計り知れないものがあります。 序文でお話ししたように、不整脈のない世界を体験しなければそれを想像することは難しく、患者さんの治療によって得られるメリットを、治療の前には小さく見積もってしまうこともあります。 また患者さんの気持ちは一つの言葉で説明できるような単純なものではないことも確かです。 『不整脈止めたいですか?』とお聞きして、YesかNoかで答えるだけでは不十分で、患者さんと結構長い時間お話しして、本当はどのぐらい不整脈を止めたいと思っているのかを想像してゆく必要があります。
つまり治療すべきか、治療すべきでないか、これは患者さんとお会いしてみないとわからないというのが結論なのでしょう。 でも「そこに不整脈があるから」という理由だけでは決して治療すべきではないと思います。